教師になって子供にいろんなことを教えたい

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こんにちは。ゆとり系真面目ブロガーのヨシナオです。

今日は若干エッセイ風の記事となります。タイトル通り「教師になって何かを教える立場になりたい」ということです。

昔から知識を得ることがとても好きな私ですが、なんだかんだ得た知識を誰かに話すのも好きでした。むしろ、「ドーダ!」と言わんばかりに言いふらしていたくらいです。

それが幸いしてか、最近は教師という職業もいいかもなと思うようになりました。人に自分が身につけたものを教えてimpressiveになって頂けれるほどの喜びはないと思います。

そんなことで、今日は教師になりたい私の考えです。

教員に恵まれた学校生活

思えば、私の小学校から大学までの17年間は教師に恵まれていた。もっと言うと幼稚園を含めた20年間が恵まれていた。唯一嫌なせんせいを挙げるとすれば小学校1年と2年を担当したK先生くらいだ。

その他の先生達はすこぶるいい先生だった。

教員を目指す人の中には、恩師と出会って自分も恩師のような人間になりたいと決心して目指す人も多いだろう。

私は表立ってそのような理由はないが、潜在的にはそうなのかもしれない。

今でさえも小学校3年生から大学4年までの先生とのやり取りをしっかりと思い出せる。

私を担当してくれた先生達に共通することは、「一人一人の人格を尊重し、対等な立場で接してくれた」ということに尽きる。

小学校で30人以上の生徒を持っていた担任の先生も、大学のゼミで若造を相手にしている先生も私という人格と性格を最大限に尊重し、個性を大事にしながら付き合ってくれた。

だからこそ今の自分があると思う。

思い返せば、自分は教育者にすこぶる恵まれたんだった。

教育の根本は対話から

最近、暉峻淑子氏の『対話する社会へ』を読んでいる影響もあってか「対話」ということに対してすこぶる意識するようになった。

親が子に施す教育も学校教育もアカデミックな教育も全て、根本は対話にあると思う。

対話とは一人が一方的に話すのではなく、相手を尊重し聞き入れながら自分の考えを伝えていく作業だ。これは生半可なものではない。暉峻が「戦争の対義語は対話だ」というのも頷ける。対話無き社会は人間社会としての機能を失ってしまうのだ。

そして、その対話が最も必要とされるのは教育現場だと思う。思春期という大切な時期に人間は多くのことに悩んだり幸せを感じたりする。

そのような感情を率直に話せる相手が必要だと思うし、そのような感情を率直に表現できないのは残念なことだとも思う。

やはり、普段から対話する環境をいかに創るかが大切なんだ。

また、子どもの心を揺さぶるようなテーマを教師が与えることもきっと大切なんだ。ただ教科書に書いてあることを暗記させるくらいなら誰にでもできる。

でも、人の心に残る話をしたり記憶に残るような授業をするのは難しい。それでも、やはりそのような場を提供することが大切なんだよね。

教育は一方向なものではなく対話を通した双方向なものであるべきですね。

印象に残る先生は教養深い

そして、何よりも大切なことだけどいい先生というのは教養が深い。

これは別にいい大学を出たという類のものではない。自分なりに子供との付き合いたかに悩み、多くの哲学書を参考にし教養を獲得した人たちだ。

ただ単に、教員採用試験に受かって惰性で教員をしているような人間のことではない。そもそも、日本は教員になるのが簡単すぎないか。教職課程を履修して教員採用試験に受かりさえすれば良いのだから。

その過程で、その人がどれほどの教養を身につけているのかはわからない。

もちろん経験の中で教養を深める人たちもいるとは思うけどね。

 

でも、自分の場合は今よりもはるかに教養を身につけてから教員になりたい。年齢的には40を超えてからではないだろうか。教育過程としては高等教育の方が良いかな。

なるべくわかりやすくしっかりと伝えたいので、高校生以上が良い。

内村鑑三『後世への最大遺物』でもあるように、教育は自分が生きた証にもなるし人が立派に育つこと以上の喜びはないのだから。

 

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