学問に向いてないかもと思う瞬間

こんにちは。エストニア に留学中のヨシナオです。私は今大学院に留学して学問を修めていますが、たまに、学問にはとことん向いていないなと思う事があります。

今日はそれについて書きます。

多分、自分には学問の世界で生きるのは無理であり、他の道を探さないといけないなぁと強く思います。

感情が入りすぎる

学問は一言で言えば科学です。科学は決して理系の自然科学分野だけが保有するものではありません。文系にも科学はあります。私が学んでいる国際関係論も社会科学という科学の一種類です。

科学という名がつくものは、とにかく客観的でデータがあり主観を排除した研究を求められます。なので、あまりニュースなどを情報源にした研究は避けます。マスコミというのは売る為にかなり民衆を煽るような内容を書くからです。

なので、とにかく私も社会科学を専攻するものとして主観を排除しないといけません。しかし、それは無理なのです。私の場合どうしても感情が入りまくってしまいます。

感情的に何が正しいのか悪いのかが出てしまいます。

核兵器について

最近、安全保障の授業で核兵器について学びました。これが中々面白いのですが、核兵器の有効性についてです。

実は、核抑止論というのは極めて科学的で効果も立証されているものです。核兵器が開発される前よりも核兵器が開発されてからは国際的な戦争は起きてないです。

核兵器を持つからこそ、国は戦争的な手段を避けるようになり、世界は平和になるという理論です。ソ連が1991年に崩壊した時に分割されたウクライナには4,000発の核兵器が残りました。しかし、ウクライナは旧ソ連体制からの脱却を図る為に核兵器を放棄しました。私的には素敵な考えだと思うのですが、ご存知のように2014年にロシアがウクライナのクリミアを占領してしまいました。ここで議論になるのは、もしウクライナが核兵器を持っていれば核抑止が働いてクリミア併合は行われなかったのかという事です。

これは仮定法の話になるのでなんとも言えません。しかし、私はこの核兵器が平和をもたらすという考え方が、どうしても受け入れられないのです。

もちろん、学問的に見れば核抑止論はリアリズムの観点として非常に優れてます。ただ、被爆者のことを考えると私としては核抑止論を訴える人をぶん殴りたくなります。

幸いな事にコースメートは核兵器保有に反対の人が大半でしたので、良かったです。ただ、あまり良くない事ですが核兵器保有に反対しているアメリカ人やロシア人は実際のところ、ヒロシマとナガサキをどう思っているんだろう?とか思ってしまいます。これは結構危険な思想ですね笑

学問的に考えると、核抑止ろんは論理的かつ科学的に効果が立証されてます。私の論を成立する為に私は「国家の安全保障から人間の安全保障に目を移した時に核兵器はNG」とか「核抑止論は男の意見であり、フェミニズム 的観点から再構築が必要」という若干イデオロギー的な言説を取ってしまいます。結局、私の場合は学問を修めていると言いつつ感情で動いているのですね。

学者向きではない

私が自分で思うことは自分は学者向きではないのではないかということです。学者としては自分の感情が強すぎる気がします。

悪い言い方をすると、偏りすぎです。これじゃ科学ではないですわ。

だからと言って、ガッツリ活動家になるのも違うのです。あんまり好きではないのです。

院生に悩みはつきものと言いますが、本当に悩みますね。

学問は大事ですが、程よく行動も大事だと思います。だから、世界史残る偉大な人は学があり、行動ができる人ですね。まぁ自分がそうなるのは無理ですが、なんとなく憧れます。

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