
海外で浴衣を着る変な筆者
こんにちは。ゆとり系変人ブロガーのヨシナオです。
最近、何人かの新しく出会った人たちに続けざまに言われていることがあります。
それは、
「ヨシナオさんって変ですよね〜」という言葉です。
彼らがどんなつもりでそれを言っているのかはわかりませんが、たいていの人はそんなことを言われると「え!?変かな?直さなきゃ」と思うでしょう。しかし、私はそう思いません。
変って言われたらむしろ嬉しくなってしまいます。なぜでしょう?それは「変であること」は良いことだからです。今日は、変だと言われることが良いことの理由を明かしましょう。
変ということは個性的である
まずは何と言ってもこれです。人は人のことを変だと言いますが、それはその人にしかないユニークな考えや行動を持っているからにほかなりません。
これは別の言葉で言い換えると「個性的」ということになります。
我々は小さい頃からこの個性という言葉をよく耳にしてきました。学校などの指導方針で個性的であれとか個を強くする(←うちの母校ww)などという教育スローガンもよく見かけます。
しかし、その個性という言葉は思ったより被教育者に浸透していないのではないでしょうか。
本来、個性的というのは他と違っている様を表します。皆んながAという意見を信じているのに自分だけそれを信じていない等です。
私の例で言うと、小学3年生の時のクリスマスの時期にサンタクロースはいないということをクラスの友達に言ったところ、一人の女子に猛抗議を喰らいました。その女子はクラス中にアンケートを取り、サンタクロースはいないという意見はあなたしか持っていないからあなたは変であると言ってきました。
私はそんなこと気にしないので「あっそ」の一言で返しました。この場合私は変であると同時に他の個体とは違う意見を持っていたので個性的であったとも言えるでしょう。
これは悪いことでしょうか。結局他の輩は後になってサンタクロースなぞいないというのに気づくのですから、個性的である私の方がはるかに先に進んでいたに違いありません。
つまり、変であることは巷の学校などの教育スローガンに表されている個性的ということを具現化した状態なのです。
変であることは皆と違うということ
変な人というのはなぜ変に思われるか。それは世間一般に受け入れられている通念や考え方と違うことを考えているからです。
例えば、日本では昆虫食が一般ではないので昆虫を食べている人は変に思われるでしょう。逆に、日本のように生卵を食べるのは外国人からしてみれば気色悪く思われます。
このように周囲と違うことは変だと見なされるのが普通です。
でも、これは大切なことではないでしょうか。周囲や世間と違うことを考える人は独創性があり世の中に何らかの形で一石を投じる可能性だってあります。
逆に、周囲や世間と同じ考えしかできない人は時代の流れに流されているだけの存在でしょう。変であることは皆んなと違い、何か一発世の中に起こしてくれる可能性があるのです(犯罪とかだと意味ないですが)。
変な人は時代が追いついてきてないだけ
変な人というのは周りと違います。それゆえに変だと思われてしまうのですが、それは単に時代がたまたまそう思わせているだけなのかもしれません。
よく、死んだ後に注目される人がいます。私の中で特に印象に残っているのはオランダの画家のレンブラントです。

レンブラントの「放蕩息子の帰還」
レンブラントの絵は彼の死後に注目されました。存命中はあまり注目されないどころか、国王などの偉い人よりも庶民を描いていたために迫害されていました。
後になってその素晴らしさに気付かれて注目されたのです。
また、哲学者のハンナ・アーレントなどもそうでしょう。彼女の理論が注目されたのはここ最近です。
かなり時代に先行した研究を行っていたのでしょう。
このように、変だと思われる人はその変な価値観が単に時代に合わないだけである可能性もあります。
むしろ、時代に先行しているの可能性もあるのです。
ですから、変だと言われたからって悲観せずに堂々と自分らしく生きるべきだと私は強く思います。